昭和48年11月22日 朝の御理解
御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」
此方の道は傘一本で開くことが出来る。今でも昔でも同じ事ですけれども、昔の先生方が布教に出らして頂く時の話を聞かせて頂きますと、成程、本当に傘一本で開く道だなと思わせて頂くような厳しいところを通っておられます。例えば六畳一間なら、六畳一間を借りて、他に金光様、親教会から頂いて参りましたお神様を奉斎して、そして取次かして頂く。何もないところからおかげを頂く。
私福岡におりました時分に、福岡教会に国竹先生というおじいさんの満州から引き上げて帰っておられた先生が居られましたが、今西新に布教して、最近開かせて頂いた話ですけども、教会もちゃんと出来たと言う事でございます。始めの間は初代の奥城にお参りした帰りに家内とその西新の教会に寄せて頂いたもんですけれども、もうそれこそ三軒長屋というでしょうか。
こう入り込んだ路地のようなところに、表には共同炊事の井戸側があって、もうそれは本当にこれが教会だろうかと思うような、そうですね、そても六畳ないです。三畳位だったでしょうかねえ、桜井先生も御承知ですね。国竹先生が布教、その時お神様と八足は出来たけど、他には何一つなかった。それでお結界ももう有り合わせのもので、それからそのお結界の御幤木がね、まだ福岡の教会に居られる時に、何か大掃除をしよったら床下から、いろんな道具が出て来た。それがお幤木じゃった。
それをこう、汚れとったつを綺麗に洗いました、ならこんなに綺麗になりました これを使っておると言う様な状況下の中に布教に出られた。それで段々、段々人が助かってですね、最近はお土地も買われるし、御普請も出来たとこう言う事です ですから確かに、何もないところからでも、本気でいうなら、命がけで神様をお供しての布教に出るというような先生方の話を沢山聞かせて頂いたんですけれども、皆そういうふうにして道が開ける。成程何もいらん。
もう茶碗でも自分達が頂くだけしかなか、といった中からおかげを受けられる道です。そういう意味もありましょう。だからそういう一生懸命的な、命がけと言う事その一つで道が開けると言う事でしょう。何もないけれどもいわゆる、不退転前には進んでも後には退かん。例え、飢え死にしても、神様の御比礼を輝かさにゃおかんと言った様な、それが私は傘一本と簡単に教えられたんだと思うです。
又、これは傘一本と言う事は、いつも傘を持っておれば安心だという、信心によるところの生まれてくる安心、神様と二人だから大丈夫と。その国竹先生が満州布教に出られる時も、そうだったらしいですね。お神様だけを背中に、そして大連に渡られる。大連から、あそこは何と言いますか、桜井先生も覚えてないですか。大連から一寸先の撫順から炭鉱のあったところ、確かにそうでした 撫順だったですね。あそこに着かれて何もなかったという。お金も旅費だけで行っちゃった。
まあ、大胆と言えば大胆ですけども、大体昔の先生の気骨というものがまあ、そういうふうに現れておったですね。生きた神様をお供しているのだから、自分が飢え死んだり、道が開けん事はないと確信している。しかも海を渡って満州あたりまでもね。丁度当時の関東州ですかね、にお出でられた。それで公園のベンチで暫く御祈念をしとったけれども、寒くはあるし、日は暮れるし、何処か泊まるところをと思うて町に出られた。ところが、大きな旅館があった。
それで旅館に折角泊まるなら、よい旅館がよいとお金はないけどね。旅館に入った。そして一番良い部屋に通してもらおうと思うて、自分が廊下をわたってつうっと、良か部屋に入られたそうです。ところがそこにね、金光様の御祭りがしてあった。もうその時ばかりは大変感動でしたというて、お話を聞いた事があります。それからそこの女将さんが大変【 】をしてから、家を探してやったり、信者を導いたりしてやってから、道が開けたと、国竹先生から直かに聞いた事があります。
それに似たり寄ったりの話はもう、本当にもう、沢山あります。それで開ける道なんです。けど問題はその傘一本が必要なんです。もう命をかけてというこの一つです。神様を信じきるというその一つなんです。れを御理解でここで頂きますと、傘一本持っとけばという事は、いつでも傘一本所持しておきますと、雨が降って来ようが暑かろうが、暑ければ開いて日除けの傘にするし、雨が降って来りゃ濡れんですむようなおかげが受けられる。だから傘一本持っとけば安心だと。
ですから、ここは安心のおかげ、信心さしてもろうて、神様を信じて安心のおかげを頂くという事が、傘一本だという事ですけれども、お互いその安心があるや否や。又そういう不退転の心、神様が食べるなとおっしゃれば食べんと言う様な信心。さあ食べる物がなかちゃ、もうそこ辺に借りにさるかにゃならんと言った様な根性では本当のおかげは頂かれないですね。私共もそこを通らせて頂いた。だから神様を信ずるというたら、その位、傘一本というのは、だからそう言う事なんです。
昨日から頂いとりますように、昨日から何人のお取次をさして頂くとに、あの橦木を頂くんです。鐘でなく橦木です。あの鐘に橦木のお話を昨日頂きましたね。釣鐘というのはもう絶対のもの。だから私共の気がシャンとしておれば、橦木がシャンとしておれば鐘は必ず鳴るんだと。だから、神様だけでもどうにもお出来にならんのだと。人間だけでもどうにも出来んのだと。
その神様と私共のいうならば、シャンとした心というか橦木がね、腐っておってぼくぼくしたとで打ったって、良い音色は出らんというお話を昨日頂きましたね。ですから私、昨日何人ものお取次さして頂くとに橦木だけ頂くんです。だからその話を致しました。こちらは不安焦燥、又は心が腐っとっちゃ駄目だと、生き生きとした喜びの心をもって、神様を頂かねば、良い音色は出ないよと御理解致しました。
もう何回も橦木を頂きますから、大体その橦木というか、シャンとした心というものは、具体的に言うたら、どういう時の場合だろうかと私が思うたです。思うたら大地と頂いた。大地大きい地、シャンとした心というのは大地の心なんです。絶対良い音色が出るのは大地の心なんです。神様は絶対の釣鐘、だから私共人間が、氏子がです、大地のような心を頂いた時、はじめて良い音色が出るのです。それが傘一本なんです。それがいうならば、安心なんです。
信心さして頂いておってです、どのような事が起きて参りましてもです、これ程信心するのにとは思わんと言う事なんです。神様の御都合に間違いはない。神愛の現れに間違いはないと確信して、もうどんな場合であっても神様の御心として受けぬくと言う事が大地の心です。大体熱心に信心しござった、ところが次々と反対の事ばっかり起こってきた。そしたらぐらぐらして神様もあったもっじゃなかと言うて、信心を止めるような根性では道は開けません。
そんな根性であったら、神様がもう見透かしてありますから、本当のおかげが受けられるはずがありません。自分の心に自問自答して見て、私はどういう場合、どういう事に立ち至りましてもです、例えば金光様の御信心をゆるがせにする事はないという自分でも確信し、神様もそれを認めて下さる。そういう心が大地の心なんです。受けて受けて受け貫く。どんな場合であってもね、神様を信じとるからとか、生きた神様を頂いていっとるだから大丈夫だと。
そこで思うとる心、お前が思うとる事は大丈夫か、大丈夫かと突いたり引いたりがある。それをお試しという。だからお試しのある時、ぐらぐらするようではです、大地の心とは言えません。 そこでもう、どのような場合であっても、元気な心、合掌して受ける心、いや起きてくるその一切が御神意、御神慮であるんだと、生きる死ぬるのはもう神様にお任せしてあるんだと。
例えば世間では信心しよんなさって、どうしてあぁ言う事が起きたであろうかと言う様な事があっても、いいえ神様の御都合に間違いないと言い切れれる私と言う事なんです。それが大地の心、成程おかげを頂けば、成程釣鐘は鳴らんはずはないと言う事如何にも熱心のようであっても、一寸思うようにならんと、もう心が暗くなる。もう心がいらいらする。受けるという心が出来ていないからなんだ。
それを神様の御神意、御神慮だと。いや神愛だと信じ切っていないからなんだ。私共が鍛えるというのはその心を鍛える。大地がどう言う様な汚いものを持っていっても、どういうものを持っていってもそれを、それこそ黙って受けて受けて、受け貫くように、受けるだけではない、それを自分の地肥やしの基にして行くという大地の心。この大地の心が、昨日から頂いておる橦木というもの。
成程、シャンとした心というもの。シャンとした橦木でそれを打つならば、それこそ有難い良い音色が出るように私共の心の中にある、いわばシャンとした心というのは、只、元気だけじゃいかん。それは【 】元気ちゅう、ですからどんな場合であっても、それが神様が下さるものであるならは、苦いものであろうが、臭いものであろが、甘い、辛いものであろうが、頂きますという心あらばという事なんです。その心をです、いよいよ確固としてゆく稽古なんです信心とは。
始めから確固と言う事はありません。けれどもそういう稽古をさして頂く事が、私は傘一本がいよいよ出来ていく事である。成程これならばそういうかっこうのものになっていく、次第に応じてです、おかげが又、頂けると言う事になります。いわゆる大きな道が開けて来ると言えます。実際は合楽の場合はここだけの事と、この事ばっかりと教えておるように思うですね。私は長い間の自分の体験から言うても、やっぱり私がおかげを受けたのはそれだと思うんですよ。
だから、皆さんに聞いて頂くのも、結局は手をかえ品をかえしてお話をしとるけれども、そこんところだと思うんです。この事ですのやしようのなかばってん、この事は受けられません。そう言う事じゃいかん。仕様事なしでもいかん。いわゆる受ける心とはいうものがです、いさぎよい心に育って行くところに、それを傘一本と言う事だと思う。そういう心。そういう心一つで道はどんな道でも開けるんだと。
だから、そういう心を目指す事が私は信心だというても過言じゃないと思うです。都合の良い事だけは受けるけれども、都合の悪いものは受けんというものでなくて私は傘一本で開くという事。それが全部が全部とはいけませんけれども、それを一つ一つ受けて行く稽古を積んで行きよる内に、成程、御神慮以外にないなという、いよいよ確信が生まれて来る。ですからどんな例えば、そこに重病人があってもですよ。
例えば助けて下さいと願いよりますよ、やっぱりそれは私共の願いなんですから。助かってもらったがよいのですから、けれどもなら死んだからというて、ばたばたはせんという腹なんです。例えば死んだ時は死んだ時で、又それに対するところの御礼が言えれる心なんです。又そのこともおかげだと信ずる事なんです。そういう心がシャンとした、いうならば、橦木と言う事なのです。立派な橦木と言う事になる。
いわゆる殊勝な心、それが橦木なんです。此方の道は傘一本で開く事が出来る。それに命をかける。そこから道が開ける。それをいとも簡単に、此方の道は傘一本で開けると言う。いと簡単に説いておられますけれども、その内容をわからせて頂くと言う事になると、今日私が皆さんに聞いて頂いたような、いわゆる目指す信心の眼目だと言う事さえ言えるわけですよね。
どうそ。